中国人物録2 南宋の文天祥  今回の人物は、南宋(1127〜1279 ※1)の文天祥です。  文天祥について語る上で、「状元じょうげん宰相」という肩書きは触れずに 済ますことができませんし、むしろこの肩書きこそが彼の生涯を最 も象徴的に示していると思われるので、まずはここから筆を起こし ます。  「状元」とは、隋の文帝(※2)以来、元代の一時期を除いて清末 まで約千四百年もの間中国で行われた、高級官僚任用試験であ る科挙において、首席合格のことです。科挙はきわめて難しい試 験で、合格は至難です。現代日本の司法試験をもって、「現代の 科挙」と呼称する向きもあるようですが、その難易度たるや、とて も比ではないと思います。時代によっても異なりますが、科挙の 合格者は三千人に一人ともいわれ、物心ついたときから勉強を 始めても、四十歳までかかることも珍しくなかったそうです。  その科挙に、文天祥は弱冠二十歳で首席合格します(南宋の 宝祐四年(1256年))。その際に提出された論文は、「法天まず」 という名論文であり、試験官であった王応麟をして、理宗 (南宋の第五代皇帝:位1224〜64)に、「是巻このかん古誼こぎ亀鑑の 若し、忠肝鉄石の如し、臣敢えて人を得たるために賀す(この 文章は、古の正義を写す鏡のようであり、その忠心は鉄石の ようです。私は、陛下が良き人士を得られたことを慶賀いたし ます)」と言わしめました。文天祥は生涯これを誇りとし、こと あるごとに「状元宰相」という肩書きを使用します。  余談ながら、状元が期待通りに位人臣を極めて宰相となる ことは意外に少なく、北宋百五十年の間、約五十回行われた 科挙を通じて「状元宰相(北宋では同中書門下平章事、ある いは尚書右僕射ぼくや(中書侍郎を兼任)・尚書左僕射(門下侍郎 を兼任)、南宋では左右の丞相が宰相に当たります)」の栄 誉を勝ち得たのは、呂蒙正、王曾、李てきら数名に過ぎません。 学校で一番の秀才は、特に人物として大成し難いといわれる こともありますが、科挙の一位という、あらゆる意味で現代と は比較にならない重荷を背負った状元が、本稿の文天祥の ように、意外に不幸な道を歩むのは無理からぬことかもしれ ません。余談ついでの戯言ですが、司法試験などでも、上 位数名は公表し、「状元判事」とか、「榜眼ぼうがん(科挙二位のこと) 検事」あるいは「探花たんか(科挙三位のこと)弁護士」などという 肩書きがついたら格好いいと思うのは小生だけでしょうか(※3)。 本稿で文天祥を取り扱った理由として、千年に一人ともいえ るような受験エリートの生涯をあらためて追ってみたいとい う意識があったのですが、現代の受験エリートたちのその 後についても興味はあります(単なる野次馬根性かもしれ ませんが……)。  文天祥は、現在の江西省吉州廬陵ろりょうの出身です。唐代まで は、長安や洛陽を忠心とした黄河流域の地方から見れば明 らかに田舎であり、文化的・経済的に、決して高い水準にあっ たとはいえない地域でしたが、宋の全国統一後、江西出身、 あるいは江西を本籍とする人物が多数、科挙を通じて中央 官界に乗り込むようになります。江西出身者たちは、保守 的傾向の強い黄河流域出身者とは異なった性格を持ち、 直言を憚らず、急進的・改革的な政策を主張するのが通例 でした。唐宋八大家(※4)の一人に数えられる文豪であり、 大政治家にして歴史家としても名高い欧陽脩(※5)と、同 じく唐宋八大家の一人で、神宗(北宋の第六代皇帝:位1067 〜85)の片腕として大々的な政治改革を行った王安石(※6) はその双璧ですが、他にも朱熹(※7)と並ぶ南宋の儒学者 陸九淵(※8)、南宋の初め、建康(現在の南京)において一 人金軍に屈せず、衣服の裾に自分の血で「寧ろ趙氏(宋の 皇室のこと)の鬼と作り、他邦の臣と為らず」と書き虐殺され た楊邦がいなどを輩出しています。彼らはいずれも一方の論 客であり、抵抗精神の極めて旺盛な人たちでした。文天祥 も、こうした郷里の先人たちの伝記を耳にしながら、多感な 少年時代を過ごしたと、史書は伝えています。  文天祥が官に就いたころの状況は、華北を支配していた 女真族(※9)の金(1115〜1234)がモンゴル帝国(※10) によって滅ぼされ、南宋は強力なモンゴル軍の侵攻に晒 されていました。南宋の開慶元年(1259年)、モンゴル軍 が四川に侵攻してきた際には遷都が決定されましたが、 文天祥はこれに反対し、任官間もなくして免官されます。 その後復職しますが、当時の宰相賈似道かじどう※11)との折り 合いが悪く、辞職しました。下野した文天祥ですが、元軍 の攻撃が激しくなり、皇帝が国内各地へ勤王の軍を求め る檄文を発すると、これに応じて私財を投じて兵を集め、 国都である杭州臨安府へ馳せ参じました。これは徳祐元 年(1275年)のことで、文天祥は四十歳。戦いの日々の 始まりです。元との戦いに転戦し、翌年には右丞相兼枢 密使に任ぜられ、和約交渉のために元の陣に赴いたとこ ろ、元の左丞相伯顔バヤン※12)によって捕らわれてしまいます。  文天祥が捕らえられている間に臨安は陥落し、張世傑、 陸秀夫(※13)らは幼帝を奉じて抵抗を続けました。文天 祥も元の軍中より脱出して、各地でゲリラ活動を行い二年 以上抵抗を続けましたが、祥興元年(1278年)、遂に捕ら えられます。翌年の正月、南宋の残党が最後に拠ったがいざんに連行され、降伏文書を書くことを求められますが、 一首の詩を詠みこれを断りました。  辛苦遭逢起一経(辛苦遭逢そうほう、一経より起ち)  干戈落落四周星(干戈かんか落落たり、四周星)  山河破砕風飄絮(山河破砕し、風はじょを飄えし)  身世浮沈雨打萍(身世浮沈、雨はへいを打つ)  惶恐灘頭説惶恐(惶恐灘こうきょうたんの頭に惶恐を説き)  零丁洋裏歎零丁(零丁洋の裏に零丁を歎ず)  人生自古誰無死(人生古より誰か死無からん)  留取丹心照汗青(丹き心を留め取って汗青を照らさん)  (艱難辛苦は科挙に及第してから始まった。幾多の  戦いに従事すること四年、山河は荒れ果て、我が身  も雨に打たれる浮き草のようだ。かつて惶恐灘の  地では部下に恐れなきことを説きながら、ここ零丁  洋では我が身の孤独を嘆いている。古より、死なぬ  者はない。この赤誠の心を世に留めおき、史書に残  すのである。)  克Rの戦いで宋が完全に滅んだ後は、大都(北京) に連行されます。元の世租フビライ(位1260〜94)は、 文天祥の才能を惜しみ、「もしよく心慮を改易あらため、亡 宋に仕えしこころをもって朕に仕えよ。朕、汝をして 中書の一座を与えん」と勧誘します。中書の一座とは、 すなわち宰相の椅子です。ですが、文天祥は「憚りな がら天祥、宋朝三帝の厚恩を忝なくし、状元宰相と号 称せらる身。いま、二姓に仕うるは願うところにあらざ るなり」と首を横に振ります。断られたフビライですが、 文天祥を殺すことには踏み切れませんでした。朝廷 でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放 してはとの意見も出され、フビライもその気になりかけ ます。ですが、文天祥が生きていることで各地の元に 対する反乱が活発化していることを知り、やむなく処 刑を決定します。文天祥は、捕らえられた直後から一 貫して死を望んでいました。  刑場に臨んで、彼は周囲の市民に故郷吉州の方角を 問い、再拝してから従容と死につきました。元の至元 十九年(1282年)のことで、享年四十七歳。臨安が陥ち てから七年、克Rの戦いから五年後のことです。数日 後、妻の欧陽氏が遺体を収めました。その顔は、まるで 生きているかのようだったと『宋史』にあります。帯に挟 まれた絶筆に曰く、  孔曰成仁(孔(孔子)は仁を成せといい)  孟曰取義(孟(孟子)は義を取れという)  惟其義尽(だ其の義を尽くさば)  所以仁至(仁に至る所以ゆえんなり)  所学何事(学ぶ所は何事ぞ)  而今而後(而今而後じこんじご)  庶幾無愧(庶幾こいねがわくははじ無からん)

−次頁に続く−

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