中国人物録2 南宋の文天祥 −前頁に戻る−  以上が文天祥の生涯の概略です。最近では、中国史関係の 書籍でさえ彼の名前を見ることは希ですが、戦前の日本では、 蒋介石(※14)など当時の新聞に現れた人々を除けば、日本 で最も有名な中国人ともいえる存在だったそうです。というの は、忠臣中の忠臣ということで、小学校の修身科の教科書に も記述があったからです。文天祥の名が日本で広くで知られ るようになったのは、江戸時代の儒学者浅見ケイ斎が『靖献遺 言』(※15)の中で、中国史上の八人の義人の一人として扱っ たことがきっかけです。この書物は、やがて幕末の志士たちに 少なからぬ影響を与え、その結果、文天祥の伝記は、明治に 入ると教科書で忠君愛国の教材にまでなりました。  小生が初めて文天祥に興味を抱いたのは、年配の学者の先 生が、著述の中で文天祥を絶賛されていたことがきっかけです。 その内容は、当然のことながら文天祥を忠義の鏡として称賛す るもので、小生も長い間、文天祥についてそのように認識して いました。ですが、あらためて彼の伝や著述に目を通すと、かな り違った人物像が浮かび上がり、正直驚きました。小生の感覚 では、文天祥は主君に対する忠義を貫いたというより、自己の 名を惜しんだという印象を強く受けます。先に引用した詩やフビ ライとの問答などにも、彼のそうした心情が典型的に表れてい るように思いますが、以下の諸例からも明らかだと思います。  文天祥が勤王の兵を挙げた際、友人が「今大兵三道より鼓行ここう し、郊畿こうきを破り内地にせまる。君、烏合万余を以て之に赴くは、是 れ何ぞ群羊を駆って猛虎をたんとするに異ならん」とこれを諫 めたところ、「吾れまた其の然るを知るなり。ただ国家の臣庶しんしょを 養育すること三百余年、一旦急有りて天下に兵を徴するに、一 人一騎も入関する者無きは、吾れ深く之を恨む。故に自ら力を 量らず身を以て之にしたがわんとす。こいねがわくは天下の忠臣義士将に風 を聞き起つ者有らん。義勝ちなんには謀立たん、人おおからば力 さん。此くの如くせば、則ち社稷は猶保つべきなり」と答えて います。また、これより先、防衛上の最重要拠点であった襄陽じょうよう (湖北省)の守将呂文かんは、孤立無援に等しい状態で六年もの 長きに渡って元軍の猛攻を耐え忍んだ末に降伏しましたが、臨 安に入るや文天祥は、見せしめのために呂文煥の一族を誅殺 すべきこと、さらには各地に総司令部を設けて連絡を密にし、攻 撃目標を明確に分けて同時反攻を行って敵を破るべきことを上 奏します。  これらの言動からは、彼の名を惜しむという態度に加え、現実 から乖離した机上の空論ともいえる思考すら垣間見える気がし ます。善悪を峻別し、論理も明晰でありながら、実行に移すには どこか現実味に欠ける、例えば目前の人々の感情や利害関係 といったものを一切捨象してしまっているという感が否めないと 思います。実際、民衆の間におけるその圧倒的な人気とは裏 腹に、文天祥の言動は往々にして士大夫層の反感を買い、この 上奏も一も二も無く退けられてしまいます。後世、文天祥、張世 傑、陸秀夫の三人をもって南宋の三忠臣と称しますが、文天祥 と他の二人は決して一枚岩ではなく、むしろ互いを毛嫌いしてい たようです。元の陣中を脱した後のゲリラ活動の過程で、文天祥 は幼帝を奉じる張世傑、陸秀夫らに合流し、力を合わせて戦いた い旨の請願書を送りますが、この期に及んでも彼らは文天祥と運 命を共にすることを嫌い、副宰相の辞令と信国公の爵位を授ける という通知を送ったのみで、参内すら認めませんでした。『宋史』も、 張世傑と陸秀夫は、列伝の中の忠義という項目で取り上げている のに対し、文天祥は一般の列伝で扱っており、あるいは『宋史』の 編者も、彼の言動の中に宋室に対する純然たる忠義とは異なる ものを感じていたのかもしれません。  話に取り留めがなくなってきてしまいました。このままでは、エリ ートなどという言葉には縁遠い小生の、超エリートに対する単なる 僻みにしかならなくなってしまいそうなので、このあたりでまとめに 入りたいと思います。  スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセトは、『ドンキホーテに関する 思索』の中で、「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を 救わないなら、私をも救えない」と喝破していますが、文天祥の生 涯を追っている中で、この言葉がふと小生の頭を過ぎりました。郷 里吉州における反骨の気風、一国の宰相としての重責、そして弱 冠二十歳での状元という矜持、これらの要素が複雑に絡み合って、 文天祥の生涯を規定してしまったような気がします。彼の一つ下の 弟である文壁は科挙には及第せず、副次的な試験である制科に よって官界入りすると、南宋末の混乱の中で恵州(広東省)の知事 にまで出世しますが、そのまま元軍に降伏しています。また、文天 祥に先立つこと十二年前、淳祐四年(1244年)の状元でやはり宰 相の位まで登りつめた留夢炎なども元に降った上、文天祥の助命 嘆願の動きに際しては、解放された彼が再び反元運動を起こした 場合の自己の立場を考え、否定的でさえありました。同じ環境に 育った兄弟や同じ状元宰相の重責を担った人間であっても、当然 のことながら、その生き方は全く異なっています。もし、文天祥が 保守的な風土の出身であったら、宰相まで昇進しなかったら、せ めて状元での及第でなかったなら……。こうした想定をしても全く 詮のないことですが、いずれか一つでも置かれた環境が違ってい たら、あたかもチンギスに仕えた耶律やりつ楚材(※16)の如く、フビライ に仕えた名宰相として史書にその名が刻まれていたかもしれない ……。そんなことを考えてしまいました。  ともあれ、文天祥は自らの信念にのみ従って生涯を全うしました。 彼の生き方は、人間の一つの極限ともいうべきものを、後世の我 々に示唆していると思います。そして、彼のような生き方のできな い人間が、その言動を自らの主観で解釈し様々な感情を抱くことは、 小生の愚見も含め個々人の自由です。ただ、論者の立場や目的に よって、同じ人物の評伝を扱っても全く印象が異なってしまうことに 驚くとともに、歴史を語ることの恐ろしさをあらためて感じざるを得ま せん。小生などは、その浅学無知のゆえに、この恐ろしさとは無縁 のところで、思いついたままの由なしごとを気ままに書いていく以外、 歴史と関わる術を知りませんが、それがかえって幸いであるように 思います。 −この稿 了−

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